嗚呼、八月十五日 |
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陸軍自動車学校幹部候補生隊第二中隊出身者で作った戦友会
「轟会」の機関紙にのせるため、の作文。 伸弘君へ村雄より。 |
| 嗚呼、八月十五日 | |
| 元第五区隊長 村内村雄 |
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それは今から四十三年前の昭和二十年八月十五日、午前九時頃だったろうか。
私はずっと泊りこんでいた市ヶ谷の陸軍省で、陸軍省陸運部長中村肇少将から
「おい、村内大尉、阿南陸軍大臣が自刃せられたぞ。俺は大臣官邸へ行く、
ついてこい」。私は陸運部(陸運部とは、その年の六月に運輸省の小運搬行政
部を陸軍省の指揮下に入れてできたもので、初代部長に中村少将をすえ、
軍人と運輸省の役人と合計十名位の部員で構成)の部員として、少将の副官の
ような仕事をしていたので直ちに用意して閣下と陸軍大臣の官邸に向った。 |
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官邸の玄関は開かれてあり憲兵の下士官がいた。中村閣下は簡単に来意を
つげて大臣の部屋に案内された。 |
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部屋は庭に面し廊下があり、次の間つきの十畳間の和室で、簡素な床の間が
あった。 |
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阿南陸軍大臣は、その床の間に頭を向けて延べられた床に仰向けに寝かされ
ていて、顔に白布がかけられていた。部屋には誰もいなかった。ただ、森閑と
して一種言いようのない峻厳さがみちみちていた。中村閣下は、大臣の枕元に
ひれ伏した。私も中村閣下のうしろにひれ伏した。中村閣下は嗚咽したが、
すぐ更に膝をすすめ大臣の顔の白布をとった。大臣は青ざめてはいたが、
いつもの通り端正な、そしてふっくらした顔で口をキッと結んでいた。
のどのま白な繃帯が私の眼にきつく飛び込んできた。 |
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しばらくして中村閣下は、枕元に置かれた線香をとり、静かに香を手向けた。
大臣の胸の布団の上には、切腹の短刀が白く横たえられていた。私も閣下に
ついで、大臣の枕元に進み、線香を手向けた。 |
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床の間には、切腹のとき短刀をまいた和紙が置かれ、ベットリと血が
にじんでいて、毛筆で、 |
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「一死以て大罪を謝し奉る |
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昭和二十年八月十四日夜 |
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陸軍大臣 阿南惟幾 花押」 |
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と書かれていた。 |
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もう一枚の和紙には |
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「大君の深き恵に浴し身は言ひ遺すべき片言もなし |
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八月十四日夜陸軍大将 惟幾」 |
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鮮烈な文字が読みとれた。 |
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私達がその部屋にいた時間は、数分間であったが、あの時の印象は強烈で、
終世忘れることはできないし、その部屋には誰もいなかったのが今もって
不思議である。 |
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これは後に知ったのだが、大臣が自決されたのは、十五日午前五時すぎ
だった。大臣は一時頃から副官であり義弟の竹下少佐と今生の別れの酒を
酌み交わしていた。 |
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陸軍省医務局衛生課長出月大佐によると、
「下腹部臍下一寸左から右に引いた創があった。作法通りの武人の自刃なり」と。 |
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そして大臣は、それから自分で頸動脈を切った。
しかし頸動脈は切れずに頸静脈を切ったので中々死ねず、副官の竹下少佐が
「介添えしましょうか」と聞くと、「いらぬ、あちらへ行け」と答えられ、
次第に意識を失い、陸軍省高級副官美山大佐のメモには「七時十分絶命」とある。 |
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私達が弔問したのは、大臣絶命後二時間位たってのことであったろうか。 |
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その日、この大臣の自決の報が伝わると、全陸軍の血が引いた。陛下のお言葉
に従えよ、決して暴走してはならぬぞ、と。死はこの陸軍大臣一人でいいのだ、
日本の国体の存続を歯をくいしばって守れよ、との大臣のご意志は陸軍軍人
全員に直感的に理解された。 |
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そしてその為に大過なく終戦の幕は引かれた。尊く偉大なる大臣の自決だった。 |
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また後で判ったことだがその日、私の顔見知りの陸軍省の叛乱主謀者等は、
午前十一時二十分、椎崎中佐と畑中少佐が二重橋と坂下門との中間の芝生で
自決した。 |
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また、古賀少佐は近衛師団に帰り、玉音放送中森師団長の棺の前で自決した。
また石原少佐は、十八日、航空通信学校の生徒らが、継戦を主張し上野公園に
たてこもったのを説得にゆき一少尉に射殺された。 |
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これに先立ち十五日午前一時半すぎ頃、畑中少佐等が近衛師団森師団長及び
その義弟、白石中佐を師団長室で殺害している。 |
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玉音放送は陸運部長室で拝聴した。中村閣下は大声をあげて文字通り号泣した。
十分間もつづいた号泣だった。私も泣いて泣いた。自決も心をかすめときに
拳銃に指もふれた。しかし待てよ、国の再建だと思い直した。 |
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その夜、阿南大臣及び椎崎中佐、畑中少佐の陸軍省の三遺体は、陸軍省構内の
市ヶ谷台上の東端で荼毘に付された。機密書類を焼く煙が台上各所でまだ夜に
なってもあがっていた。その中で私達大尉三、四人に熱っぽく説く少佐がいた。
石原少佐だった。 「日本は負けた。これからの日本を再建する手段は先ず教育だ。教育しかないぞ。 徒手空拳でも教育はできる。君達は郷里に帰り後輩の教育に徹し国体を維持して 日本を再建するのだぞ」、闇に光った少佐の眼を忘れられない。 |
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ここに改めて、国の為に殉じた人々及び今は他界された中村閣下に心からの
合掌をし、そのご冥福を祈る。 |
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昭和六十三年四月二十九日 |
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| 天長の夜 村 雄 | |
| ※文章は平成5年に逝去した弊社・創業者 村内 村雄の昭和63年4月記 | |
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