「ムラウチ創生期ものがたり」 |
| ■殺到する見学団 村内さん 部品買集めて自作 | |
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人間の運命もちょっとした動機によって大きく変化するものである。私は生まれたときから私の職業は父の家業を継いで、醤油屋になることと確定していた。私は成長するにつれてそうなるべく次第に育成されていった。それがふとした風の吹き廻しで、現在の電気商に飛びこんでしまったのだ。 昭和28年3月のNHKのテレビ放送開始は、日本の文化に一大変化を画するものであったと同時に、私の運命にも、決定的、変化をもたらしたのである。私はこの放送開始と同時に、現在の電気店経営の使命をビッシリ背負いこんだのであった。しかしその当時は、こんなに、私が全力投球をするようになるなどとは、夢にも考えていなかった。そのいきさつを語ろう。 |
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| 話は少し前にさかのぼって、大東亜戦争で破れ、陸軍の将校であった私は、市ヶ谷の陸軍省から我家に帰って醤油の製造に従事し、中断していた醤油屋の経営を再び情熱をもって開始したのであったが、その経営に、私と共に従事していた私の次弟で誉治(よしはる)は、少年の頃から、アマチュア、ラジオの組立てに異常な程の興味をもっていたが、たまたま昭和26年頃から、NHKがテレビの試験放送を開始したので、彼はそのテレビに深い関心を示して、どうしても自分でその電波をキャッチしてみたくて仕方がなかったので、彼はコツコツと、無線と実験などの本を先生として、テレビ製作に取りかかったのであった。 | |
| 昭和26年のある日、「テレビジョンが写るぞ、見に来い」と勝ち誇った顔の弟の声に、私や父が、彼の家に行ってみると、確かに何か動物らしいものが動くのであった。私がテレビを見たのはこれが始めてである。彼の部屋はカーテンで、しっかりと太陽光線を、さえぎって、まっ暗になっていて、その中に直径3インチくらいのブラウン管を抱いたゴチャ、ゴチャした複雑な機械があって、ラジオより他に、この種の機械を見たことのない私達にとっては、このテレビでもまことに複雑なものとの強い印象をあたえた−−−そのブラウン管に人か動物かの黒い動く影が写ったのであった。多分スキーをしている場面なのだろうけれど、猿のような、黒い影が動くのである。「ワッ!写った、動くぞ!」 私達は感激の声をあげて、不思議がった。「どうして写るのだ」などと、弟に質問の雨を、あびせたものである。 | |
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それはたちまち、近所の評判となった。そしてやがて下記のような新聞記事となって、一層世間に拡まるようになったのである。
その当時はまだブラウン管などは売られていなかったので、弟は苦心して、航空隊で使っていた小さなブラウン管を手に入れて、これで兎に角テレビらしいものを作ったのであった。 |
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| これは三多摩地方で作られたテレビ第一号機であったと確信している。この点で、弟の余暇に造ったこのテレビは、テレビ文化史にとって、極めて記念すべきものであったが、いまは惜しくも、そのテレビはなくなってしまった。弟は次には更に大きいブラウン管で、テレビジョンを作ったそして又々新聞記事となったのである。 | |
| 朝日新聞 昭和27年2月17日 都下版 | |
| 「街のテレビ教室 殺到する見学団 村内さん 部品買集めて自作」 | |
| ・八王子市大和田町1094会社員村内誉治さん(38)方は毎週金・土 | |
| 曜の午後2時から2時間、テレビジョンを見る付近の人達で押すな押 | |
| すなの盛況。 | |
| ・目黒の無線学校出の主人誉治さんが買い集めた部品を組み立て、 | |
| 半年ぶりにやっとこのほど完成したもの。民間人では都下初めての | |
| テレビ所有者だという | |
| ・付近の小学校でも「ぜひ教材に」と見学を申し込んできている。 | |
| ・写真はテレビ見学でにぎわう村内さんの研究室 | |
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昭和28年のNHK本放送については、その年の正月頃から弟は「オレはテレビジョンを作りたい、これを商売にしたい。兄さん協力してくれ」といい出したので、なる程それでは売る方は僕が片手間に手伝ってやれば良いと考えて、それではテレビジョン屋を開こうということで、兎に角NHKの本放送までにと「有限会社村内テレビ」を登記設立した。 このテレビという名にするか、テレビジョンにするか、テレヴィジョンにするかについては相当私達は迷ったものであった。今でこそテレビ、又は更に略してTVになっているが、当時は皆、テレビジョンと呼んでいたのである。 |
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| ※文章は平成5年に逝去した弊社・創業者 村内 村雄の昭和44年2月記 | |
| 「ムラウチ創生期ものがたり」より抜粋しました | |
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